理想をテストする

あなたの理想が実現したらどうなるかをテストする方法があります。
その理想に他者を置いてみることです。
なにごとにもあなたの思うとおりにうごかず、ダメな方向へと積極的に突きすすむ他者です。
妥協のない、絶対他者です。
さあ、シミュレートしてください。
彼・彼女がいるとうまくいかないのであれば、あなたの理想は現実にはうまくいきません。
あなたの理想で暮らす人はそこを地獄だと思うでしょう。
ものの考えや些細な好みにいたるまで、あなたとの違いがあるに応じて、苦しみを味わうことになるのです。
その理想はあなただけの楽園でした。

なぜ正義も悪も勝利しないのか?

それは、善悪(倫理)がどういうふうにできあがっているかを知ればすぐにわかります。
おおもとになるのは個人が抱いている漠然とした善悪の感覚です。
倫理学ではこの感覚を直観と呼びます。
この漠然とした感覚は、親のものを引き継いだり、友だちやまわりの人との関係性から生じたり、またはまわりのもの、たとえばテレビや本などから受ける情報からできあがります。
やがて、個々が持っている漠然とした感覚をまとめてうまく説明がつけられるように仮説がつくられ、それが善悪の法則・倫理法則・道徳とよばれるようになりました。

しかしそれは正義の味方と悪役がでてくるマンガなどと変わりません。
あなたがそこで正義を勝たせたければ正義は絶対になりますが、それはあなたの中だけの話です。
討論して勝てばあなただけの問題ではないともいえるのでしょうが、それはあなたの正義が勝ったわけではなく、ディベート(討論)の勝利です。他人との関係ではどうあがいても相対的です。
善悪はディベートにすぎないのです。もしくは、もっと広くとらえて、コミュニケーションということもできるでしょう。

この善悪というものは、余裕のあるときには上から目線で指図しますが、生死がかかった瞬間など極限の状態ではすぐに役に立たなくなり判断停止におちいります。神のように本当に助けが必要な危急のときに姿をあらわしてくれません。だから信じて私をみまもっていてくださいと祈りを捧げるほかないのでしょう。

 

しかし、この漠然とした善悪観を捨て去ることは、かなり特殊な人でなければできるものではありません。
また、集団のための善悪のルールである法律をつくるためには必要な技術でしょう。
私たちは、おそらく永遠に、この漠然とした頼りないものに頼って生きていかなければならないのです。

 
 

サルにもわかる左翼思想

良い物を安く買いたい。
この感覚は金持ちでもおなじです。
それが会社の経営者だったら買う物は労働力。良い物を安く買いたいのですから、安い賃金でたくさん働いてくれる人がいい。
それは労働者からすると安い給料でたくさん働かないと商品としての魅力がないということです。仕事を得るためには、より安い給料で、よりたくさん働くようにしなければいけなくなります。
このようにして安い給料でたくさん働くことが自然の傾向になってきます。
給料の限界は、次の日も仕事ができるだけの知力体力が維持できる額で、そこまでは下げることができます。限界まで仕事をして、わずかな給料から最小限の食事をとって、ごくわずかな私的時間の中で最小限の睡眠をして、翌日また限界まで仕事をする、の永久ループです。
どれだけたくさん働いてすべてを仕事に費やしてもお金もなく時間もない。疲労のみの生活。生活といてるのかもわからない。そんな底辺にいたったひとのことをプロレタリアを呼びます。がんばっているにもかかわらず、むくわれない彼らを救いだそうとするのが左翼思想の原点です。

 

良い物を安く買う。ここにすべてがあります。これにより貧富の差や、帝国主義とよばれる侵略の経済的なメカニズムが発生します。
これが資本の運動です。この資本の運動を停められた者はいません。そのため根本的な解決ができず色々な方法で間接的に状態をやわらげる手段がとられます。方法のちがいが色々な左翼思想のちがいになります。
また、解決手段をまるで考えず、とりあえず今のこの状態から逃げだせれば良い、漠然とした希望だけを抱いて満足しようとするスピリチュアルな左翼思想もあります。大方の人間にとって左翼思想はこれであり、そうでないとしても、その精神を支えているのはこれでしょう。

 

共産主義はマウントをとるだけ

共産主義は、ほかの左翼思想ではダメだ、といって現れました。
しかし批判はするが中身をともなわないため「こうすればいい」という実体がありません。現実にやろうとすると、かならず失敗します。リーダーは国をまとめるために専制君主になり、事態をとりつくろう日々がつづきます。器用であればごまかしも幾分つづくでしょうが、蓄積したごまかしはやがて崩壊をもたらします。解決を偽装するために誰かに責任を押しつけ処刑するのが通例です。それでは生け贄をささげる原始的な祭祀社会と変わりません。共産主義国は、専制君主国家であり、祭祀社会です。それはただの後戻りにすぎません。

 
 
 

ヴィーガンのトリック

「豚を食べていいんだったら、人間を食べてもいいはずだろ?」

ヴィーガンの論法で、肉食側を「ダブルスタンダード(豚と人間を語るときにルールを変えている)」「藁人形論法(論点のすり替え)」で斬って捨てようとするタイプは、「おまいう*1」と返しておけばいい。
ならぜなら、彼らの問題の立て方がじつは別の論点を持ってきて非難する「ダブルスタンダード」「藁人形論法」だからだ。

それは恋愛に関して「人間とだけつきあわずに豚ともつきあえ、同じ生き物だろ?」と詰問するのと同じ方法で、スタート地点でやられるので論点がすり替えられているのに気づきにくいだけだ。*2下手をすると彼ら自身も気づいていない。


動物の権利問題を掲げる倫理学者が提起する問題もみなこのたぐいで、論理学に詳しい倫理学者だとそれに気づいていて、これはお互いの倫理観をテストする方法だと注意をうながす。


そもそも倫理観で一方的に勝つのは倫理の成り立ちから考えても不可能なのだ*3。倫理の理論は、どんなによくできていようとも、倫理学で直観と呼ぶ「人が持つ漠然とした善悪の考え方」に勝つことはできない。倫理は、直感の延長上に組み立てられる。結論が直感と両立できなければ、修正が必要なのは倫理だ。

しかし、前述したように、おたがいの価値観の違いを話しあってはっきりとしようとしている場合には問題はない。倫理観の違いを確かめる良質なテストだからだ。

 

それに、ヴィーガンの問題提起もすべてが無理な押しつけなわけではない。

「食べるためだけに動物を量産して殺す行為は健全と言えるのか?」や「食糧問題として、穀物を動物に与えて育てるより穀物を直接人間が摂取するほうがムダがはるかに少なくて良い*4」というのはヴィーガンに関係なく十分考えるに値する。

 
 
 
 
 

*1:おまえが言うな

*2:公平な場所ではなく、彼らが一方的に有利な場所に立たされている

*3:ただし相手の倫理観にあきらかな矛盾がある場合を除いて。それでも五分五分。相手が指摘を受け入れて自分の倫理観がおかしいと思った場合のみ有効

*4:あるいは「動物を育てるための穀物を作るリソースを別の農産物に割り当てたほうが良いのではないか?」

目には見えないもの

神様なんて存在しないものを信じてどうするの?

よくある疑問

 こたえは「存在しないものを信じても問題なし」です。

 

アニメや映画やドラマや本をみて影響をうけて山に登ったり自衛隊に入ったり外国に行ったり絵を描いたりそんなふうに何かしたり、アニメや映画やドラマや本にでてくる綺麗でかわいい女の子や素敵でかっこいい男の子に恋をしたりするのに、神様だけダメってことはないでしょう。

影響を受けてやったことは、きちんとがんばれば、経験は身になるし、適当にやっていたなら何も身につかない。恋もおなじで、真剣になって、その人のために自分も大事にして張りあいを持って毎日をすごしていれば自分を成長させる。他の登場人物をけなし、その人物を好きだという人も攻撃するようなそんな狂った生活をしてしまえば自分をダメにする。

 架空の人物に恋をしても両思いにはなれないけれど、でも恋をしている・人を愛している自分のその生きる姿勢は変わりません。少なくとも、存在していないものだから何もない、無意味、無価値、無駄ではありません。

 

目に見えないけど確実にあって私たちに強く影響するものは他にもあります。

約束。契約*1。お金の貸し借りもそうです。

物理的に存在しないけれど、確実に私たちを拘束します。

無視すればひどいめにあいます。

存在しないけれど、しかし確実にあって強い力を持つ、そんな魔法のようなものは現代でも存在するのです。たぶん未来にもずっと。

現実を真摯に見つめるならば目に見えないものを軽視してはいけません。

目に見えないものを見ないのはまちがった物の見方です。

 

存在するものと存在しないものの違い

こうなってくるとどちらでもおなじではないか、おなじでいいじゃないかめんどくさいと思ってしまう人もでてくるかもしれませんが違いはあります。

存在するものは送り手と受け手がありますが、存在しないものは受け手しかありません。受け手が送り手を兼ねています。

これは、怪物がいたとして、怪物が本当に存在していれば、怪物が攻撃して傷つけられることがありますが、怪物が存在していないなら、怪物に攻撃されて傷つけられることはなく、怪物に傷つけられたようなことにしかなりません。見えない力はなにもせず、見えない力に影響を受けた人(たち)がなにかをするのです。

 

「それって心理効果じゃん」

心理は行動を起こす引き金です。人間は存在化・物質化のマシンです。

精神は、外界の存在すべてに覆いかぶさり、はみでて、それでもたりなくて盛りあがって重なりあって山になります。

精神の余剰である目に見えないものは存在するものと同等の力を及ぼします。

けして、あなどるなかれです。

 

 

 
 
 
 
 
 
 

*1:「僕と契約して、魔法少女になってよ」

ヴィーガンまとめ・その光と闇

Twitterで論陣を張り、ネットをにぎわしている菜食主義の勢力ヴィーガンについてまとめてみました。

考えの根本

かれらが目指しているのは他者をできるだけ苦しめない生きかたです。

ここでいう他者は人間だけではなく動物も含まれます。

ほかに代替があるのだから動物を殺さずに食事をしようよ――そういった考えから菜食主義がでてきます。

殺生を禁じているわけではありません。

現実的にまったく生き物を殺さずに生きていくことは不可能だからです。それでもできることはあるはず、それが菜食主義だったわけです。

発展・派生・関係

  • ほぼかならず動物愛護の精神をもちます。
  • フェミニズムと関係することが多いです。他者への痛みがわかるからでしょう。
  • アンチナタリズム(反出生主義)と結びつくことが多いです。生きていれば気をつけていても誰かを苦しめる。菜食主義もある種妥協の産物です。生まれることはそれだけで罪ではないのかという、つきつめた発想が共通しています。

問題点

  •  自滅・自殺傾向があります。生きていることが罪であり、苦しみなので、そちらにむかうひとがいます。
  • 他殺傾向があります。肉食者は死んでしまえばいいという発言が見られます。生きているものはみな罪を犯している、という考えから他殺意識が芽ばえます。、またフェミニズムを同時にもっている場合に、男は滅びてしまえ、と考えるひとがいます。
  • 理論的で感情を軽視する傾向があります。知性主義的で知性あるものを優遇し他を排除する傾向があります。生命に関して鈍感で、植物の生命をうばうことになんのためらいも疑問ももたなくなるひとがいます。苦痛を感じない生き物が作りだされたらそれを殺して食べることになんの問題もないと考えるひともでてきました。また、ほかの意見を持つものに対して冷淡かつ冷酷です。

 

そのほか、ヴィーガンを考える上で大切なこと

それは善悪(倫理学)です。

ヴィーガンは悪いことをしたくないのです。

 

単純に「これは善」と考えてしまうこと、それは自然主義的誤謬という誤りだとジョージ・エドワード・ムーアという哲学者は批判しました。

善は根本的につきつめた定義ができません。すでにそう信じている善悪観を利用してでしか考えることができないのです。

 

では、ヴィーガンの善悪観はどこからでてきているのでしょう。

かれらが引用するのはサム・ハリスの主張です。その考えは要約すると、最悪の状態って苦しいってことじゃん、です。

じゃあ、だれかが苦痛を感じている状態は悪いってことだから、苦痛をあたえないようにしよう、というのがヴィーガンの善なのです。

 

ただし、サム・ハリスの考え方は、意識を持っている(苦痛を感じる)者限定の倫理になります。これを忘れるとヴィーガンの思想は破綻し狂気へいたります。